メルマガ月刊生涯学習通信
第176号
発行日:平成26年8月
発行者: 三浦清一郎
自分史再考—八幡大空襲の聞き書きを終えて
今年で戦後69年になる。北九州市の平野市民センターの事業で、昭和20年8月8日の八幡大空襲を生き延びた人々の聞き書きを作成する事業に参加した。一連の指導を続けながら、文章化されて行く人々の記憶は、自分の人生を思い出す「よすが」にもなった。定職を離れて以来、遠くで暮らす二人の子どものために何か書き残してやりたいと思うようになって久しいが、それは所詮「オレを忘れてくれるな!」という哀願に近い気持ちであることに気付かされた。自分史は、「片想い」で「帰らぬ日々への感傷」である。自分史に入れたいと思って、読み返す詩歌は、古いアルバムに似て、それもまた、帰らざるものへの感傷である。詩歌自分史にしたいが、奇をてらう実験であることは自分が一番よく知っている。自分史は、誰からも忘れられて、歴史的に消滅してしまう自分への恐怖に突き動かされた感傷なのだろう。なぜか子ども時代の分かれに似て、甘く、悲しい。
1 「片想い」
書き始めれば瞬時に分かる。私の自分史の大部分は忘れがたき人々に対する一方的な片想いである。その当時には言えなかった独り言や恋文でもある。後から想像を巡らす「あの人」や「かの人」の心境でもある。忘れがたければ、忘れがたいほどに特別な思い入れをしている。こうであって欲しいという身勝手な幻想も混じらざるを得ない。考えてみれば、当たり前のことだが、忘れがたい人々を客観的に思い出すことなど出来る筈はないのだ。G.H.ミードのいう「特別他者」は特別なのである。身近で主観的な存在だからこそ忘れがたいのである。思いが一方的になっても、見苦しい愚痴や恨み言にならなければ、それで「よし」とし、表題を「不帰春秋片想い」とした。過去の詩歌を集めて素材とし詩歌自分史の実験も兼ねた。詩歌に託した想いの丈が通じれば上出来であるが、想いが通じなくても、詩歌はイラストの代わりでもある。
2 「半分史」で「ありがた史」
Detachmentとは物事から離れる事であり、客観的に距離を置いて物事を見る事である。原則は学問研究の方法と同じであるが、自分が生きて来た歴史に心理的な距離をおくことは、学問上の分析より遥かに難しい。「忘れ難い人々」を書き始めて、一番難しいのは、事実と感情の間のバランスであった。自分史だから、自分のことを書く。自分の事は事件も人物も巡り会った季節の思いが蘇って、感情的・主観的にならざるを得ない。もちろん、感慨が溢れてその季節や出会った人々に愛着を感じなければ、書く気にもならず、自分史にもならない。しかし、出来事の分析が独りよがりの感想に留まれば、誰も読んでくれず、同意もしてくれない。誰かが思いを共有してくれることを願って書くためには、時々立ち止まって、この思いは人々にも起こることだろうか、と反芻する。自分史は自分が人生で出会った事件の記録であるが、単なる記録ではない。「私を忘れないで」と訴えているが、「訴え」は正当であろうか?そのためらいがDetachmentである。
「忘れ難い人々」のことを書いているのは、その方々に愛着を抱いているからである。だから、時に、「告白」になり、「勝手な思い入れ」になり、多くは「片想い」になることは免れないが、それでも記録には記録の条件がある。記録の客観性もまたDetachmentだと考えた。
一方、人生の事件にとって重要な登場人物が必ずしも「懐かしい」とは限らない。憎たらしい奴もいれば、思い出したくない奴もいる。だから、自分史は必ずしも「事件」に忠実ではない。思い出したくない人間のことを書き始めると、腹が立って筆が走るので事件史の品性が下がる。自分史は「紙の墓標」だそうだから、品性が下がるのは困る。人々に憎まれ口を聞かせて「あの世」に行くことは辛い。だから、「忘れ難い人々」の中で「思い出したくない人々」は切り捨てている。自分史は「半分史」となり、「有り難い人々」への感謝を綴った「ありがた史」になる。
2 現在身近にいる人は思い出にできない
妻が亡くなって初めて妻のことが書けるようになった気がする。まだ、自分の日常に出入りして、身近にいる人は思い出にできない。思い出にしてしまったら生活が崩壊するのである。事実、今現在、人生でお世話になっているのはそういう方々なのだ。
身近な人々のことが書けないのは、「灯台下暗し」に似ている。少し距離を置かないと、分析の光が届かず、その人との関係が美しく見えてこない。日々、接触しているので身近な人々ほど、日常の関係と感情の距離を保つことが難しい。恐らく、「思い出」というものは、離ればなれになった歳月や再会が難しくなった人生の距離感が「濾過装置」として働くのであろう。それゆえ、「現在進行形」の人間関係には未だ距離感が発生せず、「濾過装置」が機能しないのである。身近な人のことを書かないのは、感謝の気持ちが薄いようで気になるが、「現在史」には、当然、軋轢もあり、いいことばかりではない。「現在史」の片想いは、当事者との人間関係を意識するので、どこか「嘘っぽく」なるのも辛い。「現在史」は「自分史」に含めにくいのである。
過ぎた昔を思い出し、離れた人々だけを忘れ難いと思うのは、人間の奇妙な「錯覚」である。今、目の前にいる大事な人々の事を当然とし、軽んじてさえいる。これは「遠い神様」にお参りする方が「ご利益」が大きいと錯覚するのに似たような感覚である。「神様」までの距離が遠いほど、「お参りの価値」が高いかのように、「遠い思い出」の「時間的距離」が長いほど、記憶が選別されて思い出を美しく凝縮するようである。だから、自分史は「現在史」を飛ばさざるを得ない。自分史は「過去史」のみになる。
国際結婚の社会学 III
—アメリカ人妻の鏡に映った日本文化
甘い、甘い?—「長持ち」の秘訣
夫:いらっしゃい。お待ちしておりました。ハニー、矢野さんのお着きだよ。
妻:どうぞ、お入りください。ダーリン、応接間へご案内して。
夫:はいはい。矢野さんどうぞ、こちらへ。どうぞ、どうぞ。
スイートハート、矢野さんのコートを受け取って。
矢野:お邪魔します。お招きに預かりまして・・・。
夫:良くいらっしゃいました。どうぞ、お坐りください。
妻:ダーリン、お飲物のご注文を聞いて!
夫:マイラブ、矢野さんはグリーンティー派だよ。
矢野:どうぞ、あまりおかまいなく。これは詰まらないものですが、土地の名物です。
夫:ご丁寧にどうも。スイートハート、お土産を頂きましたよ!
妻:Thank you,矢野さん、so much!
夫:スイートハート、肉を焼くときはいつでも呼んで!
妻:Yes、ダーリン。後30分ぐらいしたらお願いね。今、お茶をお持ちしますからね!
夫:イエス、パンプキン!(カボチャの意味ですから、日本人妻には絶対に使わないで下さい!!)
矢野:三浦さん、驚きました!ご結婚なさってもう大分長いでしょう?
夫:もうすぐ50年になります。
矢野:すごいですね!新鮮ですね!!実に驚きました。未だにハニー、スイートハート、マイラブにダーリンですか!!!これが国際結婚の秘訣なんですね!!!我が家では「おーい」ですよ。
夫:お静かに!お静かに。内緒ですよ!絶対に内緒ですよ!ここ5年ほど妻の名前を思い出せない時が多いんです。窮余の一策です。お宅の奥様は、お名前なんとおっしゃいましたっけ?
矢野:妻ですか?えーと。それがですね、なんだっけ。困りましたね!やっぱり「おーい」ですね。
「私」は、最後まで「外人」なのですね!
1 文化は分類する
日本にかぎらず、どの社会も、その構成員と非構成員とを区別しています。構成員の中でも、更に細かく細分化して、仲間と仲間以外を区別します。それゆえ、文化を論じることは、その区別の仕方を論じることになります。言い換えれば、人間社会では、「我々」と「彼ら」の区別は常につきまとっているということです。ある社会では「われわれの壁」が強固で、滅多なことで、「彼ら」が「われわれ」の中に入れてもらうことはできません。ところが別の社会では、相対的に容易に、「彼ら」は「われわれ」を受け容れてくれます。この違いが文化だということでしょう。われわれとかれらを区別する基準や装置が柔軟であったり、強固であったりするのが文化です。差別や迫害の原因も彼我を区分する「壁」にあります。
2「外人」は「内の人」の同心円には入らない
日本人は、「われわれ」を「内の人」と呼び、「かれら」を「外の人」と呼んできました。日本人の人間関係を決定しているのは「内」と「外」の認識であり、感覚です。「内」と「外」を分けるのは集団の構成員の「共通点」であり、「類似点」です。もちろん、血縁は最も強力な共通点です
日本人の人間関係を構成する原理は同心円で表すことができ、われわれはその同心円のどこかに位置しています。もちろん、同心円は、一つではなく、社会の各分野に無数の同心円があり、われわれは複数の同心円に同時に属しています。
同心円の中心には、まず家族のような「身内」が居て、その外側に「仲間内」が居て、その外に同業の「組み内」や、居住地を共にする「ムラ内」があり、県人会があり、最後は、日本人会があります。 要は、自分に近いものの順に「親密」さや「共通性」の度合いが濃く、自分から離れるに従ってそれらが薄くなり、「疎遠」になって行きます。ここまでは他の文化でも同じことでしょう。
最外円が「同じ日本人同士じゃないか」というところで「日本人の身内意識」は終わります。ここまでが「同心円」です。
円の外側は「外人」です。日本文化において、外人が「人の外」に置かれるのは、円の中に入れてもらえないからです。それゆえ、 外人とは、「日本人が人間関係を形成する円の外の人」を言います。また、外人は「外の人」であると同時に、「人の外」として遇されることも多かったのです。桃太郎その他の古い物語の中でたまたま日本に居た多くの外国人は、人ならぬ「赤鬼」や「青鬼」にされたのは当然のことで、日本人の人間関係観を象徴しています。それゆえ、同和問題の差別の論理はかつて「非人」(人ではない)として同和地区の人々を「人の外」に置いたのです。まことに残酷な論理です。人種で差別するアメリカ人たちは、日本文化の差別の論理が理解できなかったのでしょう。私が最初に読んだアメリカ社会学の「人種関係論」の教科書には、日本の同和問題のことを「見えない人種(
Invisible
Race)」である、と説明していました。人種的に同じルーツの日本人を日本人が差別する論理は、アメリカの学生たちには理解できなかっただろうと思います。
3 文化のルールはすべての組織に貫徹している
こうした「内」と「外」を峻別する文化は、ビジネスの世界にも適用されます。ビジネスの世界も会社組織の構成原理は共通です。円心には、同一の役割を負っている「係」があり、その外側に、「課」が置かれます。更にその外側に「部」があり、最後に、会社があります。子会社や系列会社はその外縁に位置し、同種・同業の会社は更にその外側に位置しています。協調的生産調整を行なったり、「談合」ができるのはここまでです。
このような組織上の分類単位は、それぞれに文化的「セクト」を形成して、「権限」や「縄張り」を争ったりします。学問研究上の専門が「セクト」になったり、「縄張り」になったりするのも同じ理屈です。
4 国際化は日本人の秩序意識を侵害する
国際化は、通常、外国の企業が参入して、同一あるいは共通の条件下で競争することになるので、日本文化とは異なった文化基準がビジネスに持ち込まれ、それまであった同心円の「内なる」関係は脅威にさらされます。
どの文化も、最初、国際化に抵抗するのは、自国の文化が作り出していた秩序に異分子が侵入するからです。日本の場合、その脅威が甚だしいのです。国際結婚も同じで、「外人」が日本人の配偶者となれば、家族内でも、世間一般でも、「内」と「外」の従来区分を再調整しなければならなくなります。
国際結婚が嫌われるのは、もともと存在する文化の分類基準が異なるもの同士が「一緒になること」によって、関係者の既存の「分類基準」や「集団意識」を混乱させることになるからです。このことは、異なった「宗教間の結婚」を考えればより分かり易いでしょう。
ロミオとジュリエットの物語の通り、「敵」と「味方」が一緒になっても、「身内」と「よそ者」が一緒になっても、敵を許せない人やよそ者を受入れない人の間に、必ず大きな波紋が起ります。封建時代の「身分違い」の結婚も同じです。
また、「神様」の違う者同士の結婚は、「神々の戦い」にまで発展しかねないのです。異った宗教間の結婚がしばしばどちらかの改宗を前提にするのは、「神々の戦い」を避けるためです。既存の分類枠が無視されて、身分制が壊れては、今の身分に安住している人々が困るのです。身分によって守られている人々にとって、身分とは「既得権」だからです。国際結婚は、往々にして上記の混乱のすべてを含んでいるのです。
5 子育ては「自衛戦」
わが妻はその「外人」であり、子どもたちは混血の「あいのこ」であり、国籍は日本人でも、多くの日本人にとって、純粋の日本人ではありませんでした。妻は、私の妻であることによって世間一般の「客」となり、私が親切にされたように人々に親切にされました。子どもたちも同じでしたが、未熟な子どもの世界では「客」の概念も「客」を遇する礼節もまだ確立されていません。教師が事情を分かって「客」にしてくれていればまだしも、教師が混血の子を外人であると思っていれば一般の子どもたちが手加減をするはずはありません。「ガイジン、ガイジン」とはやし立てることは最初から分かっていたことです。おまけに、わが娘の目は青みがかったみどり色でしたから、立ち所に「ミドリめんたま」と囃されるようになりました。子育ては最初から世間との戦いであることは自明であり、子どもたちに取っては。「正当防衛」の「自衛戦」になりました。
1 「私」は、最後まで「外人」なのですね!
—いつまで「客」でいるのか?—
妻の嘆きは日本で何年暮らそうと決して「ふつうの」仲間になれないことでした。いつもそのことがアメリカとの最大の「違い」だと言っていました。だからといって、日本人が妻に親切でなかった訳ではありません。実に親切でした。それゆえ、「親切」と「仲間意識」は違うということに気付かざるを得ません。彼女は、亡くなる数年前に、ようやく日本人の友だちが出来たと嬉しそうに述懐したことがありました。それは彼女が20年近くも教えた同世代の英語グループの仲間でした。友だちになるのに20年かかったということでしょう。
一方、私が体験したアメリカは移民の国です。それゆえ、外国人も自国民もアメリカという「大鍋」に放り込んで、みんな一緒に煮てしまうのです。留学生であった私まで大鍋に放り込んで煮てしまうのです。だから、学生寮のルームメイトはアメリカ人でした。
外国人学生のためと称して「留学生寮」を作り、日本人から「隔離」してしまう日本文化とは決定的な違いでした。キャンパスにただ一人の日本人として当初は珍しがられましたが、「外人」概念はありませんでした。それゆえ、「外国人」に対する特別扱いはなく、手加減もありませんでした。差別はありましたが、「外人差別」ではなく、人種差別や宗教差別です。ノートを貸してくれた女学生と仲良しになり、最後は結婚するようになったのも、日本人としてではなく、一人の人間として遇してくれたことが大きかったと思います。また、後に、招かれて長期の指導に出向いた時も、すぐに打ち解けて研究仲間ができ、共同の仕事もできました。むしろ「客扱い」は最初の数週間だけのことでした。
2 「日本人にはなれない」という前提があるのです
日本滞在が10年を過ぎても20年を過ぎても、相変わらず、妻に「日本語お上手ですね」と言って褒める人がいました。「箸を上手に使いますね!」と言う人もいました。だから「私をバカだと思ってんのよ!」と怒ることもありました。
私は「そうじゃない、この国には、外人は日本人にはなれないという前提があるのだよ」と説明しました。逆に、アメリカには「アメリカ人になれ」という前提があるじゃないですか、と言いました。
アメリカで、私に「英語お上手ですね」と言った人は全くありません。「箸、お上手ですね」に当たる「ナイフとフォーク使えるのですね」もありません。日本人は、外国人が日本の文化を理解するのは無理だという前提で外国人に接します。あらゆる面で、「外の人」は「内の人」になれないとどこかで考えているのではないでしょうか?逆に、アメリカ人は、アメリカでは「こうするのだ」・「早く覚えろ」という前提で接します。
私が何とか無事に卒業し、社会学の学位が取れた時、専攻は社会学なのだから、このまま日本に帰らず、「異文化のアメリカを体験し、自分を試しなさい」と言ってくれたのは当時の大学院研究科長の老教授でした。彼は、遠くから日本人学生の「もがき」を見ていてくれたそうで、親切にも就職のための推薦状まで書いて励ましてくれました。アメリカでがんばったものは、過去の敵国の青年も、アメリカの青年と同じように遇して、チャンスをくれたのです。
3 「家族の一員として受け容れる」という承認の儀式
私たちが結婚した当初は、 アメリカの家族もこの結婚に反対でした。無理もないと思います。戦後,20年しか経っていず、私は敵国の青年であり、日本は未だ貧しく、私には母国での定職もなかったのです。
しかし、妻は、孤立を恐れず、悪びれることもなく、私を連れて一族の集まりに出ました。そうした彼女の言動も驚きでした。「波風は立てたくない」。「冷たい視線も耐え難い」。「二人でどこかへ行けばいいでないか」と、臆病風に吹かれて「矢切の渡し」風に考えていたのは私の方でした。
南カロライナ州の小さな田舎町に、母方の一族70人〜80人くらいが集まった大集会(Family Re-union)がありました。開会のあいさつは、当時90歳近い妻の祖父で、一族では最長老でした。彼は、「みんなよく来た」と全員に歓迎の辞を述べた後、我々二人を紹介し、結婚を祝福して、「変わった孫ができたが、この日本人を一族の一員として受け容れる」と宣言しました。誰が言い出してくれたことか、分かりませんが、「家族の一員として受け容れる」という承認の儀式をしてくれたのです。
一座は、水を打ったように静まり、やがて拍手が起こりました。我々は注目の的となり、入れ替わり立ち替わり握手を求める人が続き、家族集会は何ごともなく和やかに続きました。かくして私はランカスター・ファミリー(妻の母方の姓です)の一員となったのです。「ほらね、大丈夫だったでしょう!」と妻が言いました。
思い返すだけでも、胸が熱くなる演説でした。おじいさんも、それを受け容れた一族のメンバーも、何とフェアで、見事なことか、と感慨を持って思い出します。あれから50年経ちました。当時の小生の感想は少しだけ変わりました。
あのときのおじいさんも、私を遇したアメリカ社会も、「フェアであった」というより、自らに命じて「フェアであろうとしていた」のだと思うようになりました。アメリカ史を見れば、人種差別に限らず、「フェアでない」こともたくさんあったことは周知の通りです。
しかし、移民の国は誰にでもフェアなチャンスを与えようという「原理」に則って懸命に努力しているのだと考えるようになりました。「アメリカン・ドリーム」という言葉に象徴されるように、努力するものは誰にでもチャンスを与えるという原理です。その意味で、アメリカは、不完全ながらも、常に「自由」、「平等」、「公平」、「フロンティア・スピリット」を理想に掲げ、その原理のために生きようとする原理主義の国なのだと理解するようになったのです。以来、私は日本からの「客」ではなく、ランカスター家の一員として遇され、自分も一員であるという意識になりました。あれから50年、娘は今でも「ランカスター・ファミリーのリ・ユニオン」に出席しています。
4 「帰らない客」でも「永遠の客」
「客」はいつかは本来の「居場所」に帰るから「客」なのです。それゆえ、客の処遇は一時的で、大元の身分制度は変えなくて済むのです。しかし、わが妻は私が生きている限り、帰ることのない「永遠の客」に留まらざるを得なかったのです。彼女がアメリカ人だということを忘れて、一員として受け容れたのは、わが小さな一族だけだったでしょう。たとえ親族といえども、彼らにとって彼女は外国からの特別の「客」であって、「身内もどき」でした。
わが子どもたちの置かれた位置も微妙なものでした。日本人の子どもとして日本に生まれない限り、中々日本人にはなれないからです。それゆえ、わが子どもたちも、「ハーフ」と呼ばれ、純粋日本人には中々なれませんでした。そうしたことが関係したのか、しなかったのか、娘はアメリカへ「脱出」し、息子は日本で仕事をしています。成人した彼らの思いを一度聞いてみたいものです。
5 御雇外国人の論理
日本人の応用力は、外国人を差別しながら、被差別意識を緩和する「客分」の制度でいかんなく発揮されました。昔のやくざ組織が、旅のやくざを「客」として遇しながらも、「身内」に入れなかった論理と同じです。「客」は「一宿一飯の恩義」に報いて、喧嘩の助っ人などを引き受けましたが、あくまでも「助っ人」に留まりました。明治近代化に活躍した「お傭い外国人」も同じで、「客」の論理の応用です。そして「客」は必ずいつか国へ帰るのです。
話はそれますが、「お傭い外国人」は、現代の客員身分ですから今でも応用が出来るのです。文科省はなぜ明治の知恵を忘れて、英語の喋れない日本人英語教員に英語を教えさせているのでしょうか!?おそらくこちらの答は流入する外国人教員の数が文化的「脅威」になることが問題なのでしょう。外国人看護師の問題も似たようなものです。
看護師が不足していることも、将来ますます不足することも明らかなのに、現状は外国人看護師に難しい日本語試験を課して故意に入国をブロックしています。漢字圏出身者でない人々に医学用語を多く含んだ日本語試験を受けなさいということの非常識は故意にやっているとしか思えません。看護師協会やその意を受けた政府の審議会の役人や学者が、日本語試験を関門にして合格者が出ないようにしているのは、そもそも外国人看護師を日本人看護師と同等に認めたくないという既得権者および一般日本人の思惑が働いているからでしょう。明治期と同じように、お傭い外国人として、外国の「看護師」助手をどんどん採用し、数年の間日本人の看護師につけて、現場実習を積めばあっという間に日本語のコミュニケーション能力などは向上するのです。元々が母国の専門家ですから、現場体験を積めば、日本人看護師と同じように仕事をするようになることは時間の問題です。事の本質は、日本人が自国に外国人を入れたがらないという問題です。良くいえば文化論の好き嫌いの問題であり、悪くいえば「外人差別」の問題なのです。
6 言語学上の「客」
言語学者が言うには、商売上の「客」も一時的に「身内」の「客」になるという意味だそうです。だから、「お客さま」は「神様」で、「お客さま」には丁寧語を使い、列車に乗った時だけ、時間限定的に、JRの客となり、「傘の忘れ物」から、「お気を付けてお帰り下さい」・「お疲れさまでした」まで、身内に言うように言うのだそうです。なっとくです!
時間限定的であることを知らない、短期滞在の外国人は日本人の親切と丁寧さを本来のものであると勘違いして感激します。しかし、長期滞在の外国人は、仲間にしないための「客扱い」であることを見抜いています。
7 亭主の客の「扱い」は亭主次第
既存の人間関係の輪に属さない「よそ者」も誰かの「客」になることによって一時的に「輪」の中に入れてもらうことができるのですが、日本文化の特徴は「客」を半永久的に「客」に留めておくということです。また、誰の「客」になるかによって、人間関係の「輪」の中の待遇が異なることはいうまでもありません。
特に、「内と外」を厳しく区別する日本人の「同類意識」は「客」の概念を多用して、「外の人」にも特別待遇を与える方法を生み出しました。
妻は私の妻であることによって、「特別客」となり、私を知っている他の日本人の「客」となったのです。それゆえ、私を親切にしてくれる人々によって親切にされました。しかも、私は「男」であり、教職に在ったので、人々は並々ならず親切でした。妻は私の粗暴な振る舞いを実に恐れていました。私を憎む人は妻をも憎むであろうことを直感的に分かっていたのだと思います。「怒鳴ったりしないで!必ず私に返って来るのだから」が口癖でした。亭主の客の処遇は亭主次第で、亭主が嫌われれば、そのとばっちりは客である妻に跳ね返るということです。
客の待遇は、世間の主人に対する評価次第と言うことなのです。
それゆえ、同じ国際結婚でも日本人女性と外国人男性の組み合わせの場合は、世間の処遇はもっともっと厳しかったことでしょう。日本に置ける女性の地位は男より断然低いからです。
多くの日本人は知らないことですが、「父性主義」を守った日本では、外国人の日本人妻の子どもは、国籍上「日本人になれない」時代が長く続いたのです。国際結婚について日本人女性が書いた分析が日本人についても日本文化についてもより厳しく、より多くの怒りを含んでいるのはそういう事情を反映しているのだと思います。国際化はもちろん男女共同参画においても、日本は未だに男主導の「発展途上国」で、昔流にいえば、世界の「後進国」であることは疑いのない事実だからです。
8 私は「留学生」と同じか?
文科省にいた時代も、国立大学にいた時代も、私立大学の運営に関わった時代も、「留学生」を日本人と同じように遇することが真の「国際化」であると論じましたが、関係者にはほとんど通じませんでした。留学生は「外人」ですから、最初から最後まで「仲間うち」に入れてもらうことはなく、「客身分」でしかなかったのです。日本の大学の多くは、組織上「国際交流課」ではなく、「留学生課」を作り、留学生を日本人学生から隔離する「留学生寮」を作り、全てのイベントに「留学生フェア」のような「留学生」という冠をつけ、日本人とは違うということを強調しました。担当者がどれくらい意識していたかは定かではありませんが、善意の上では留学生を「客」として特別扱いし、悪意の上では日本人と同格とは決して認めないという区別(差別)を徹底したのです。
恐らく、日本で初めて留学生を日本人学生と隔てなく受入れた大学は立命館が大分県別府市に設立したAPU(アジア太平洋大学)だったと思いますが、日本全体としての留学生隔離政策は今も国際化の名の下に続いているのです。
自分が留学生として暮らしたアメリカの大学の遇し方やフルブライト交換教授として過ごしたアメリカの同僚との交流を思うと彼我の何たる違いかとため息の出る思いです。
妻は日本語にも、日本文化にも堪能でした。しかし、妻の嘆きは、長い日本での結婚生活を経ても日本人の中に入れてもらえず、常に「客」として遇され、「客」に留まらざるを得ないということでした。私は留学生と同じか、と言ったこともありました。
お知らせ
1 第142回生涯教育まちづくりフォーラムin ふくおか
日時:平成26年9月20日(土)15::00〜17:00
場所:福岡県立社会教育総合センター、
〒811-2402 福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2
TEL 092-947-3512 FAX 092-947-8029
事例発表:「寺子屋in庄」〜子ども会加入率100ぱ%で子どもを核に地域をつなぐ〜寺子屋in庄 実行委員 林
良子
論文発表:「本歌取り、小話、替え歌もどきで平成の教育を笑う」—三浦清一郎
2 第143回生涯教育まちづくり移動フォーラムin上天草
日時:平成26年10月25日(土)
場所と内容はただいま協議中です。
3 第144回生涯教育まちづくり移動フォーラムin 徳地
日時:平成26年11月29日(土)〜30日(日)
場所:山口県徳地青少年の家
内容は協議中です。
4 第145回生涯教育まちづくりフォーラムin ふくおか
日時:平成26年12月20日(土)
場所:場所:福岡県立社会教育総合センター、
〒811-2402 福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2
TEL 092-947-3512 FAX 092-947-8029
忘年例会になります。内容は協議中です。
* それぞれにご多忙であることは承知しておりますので、事前に日程だけ押さえて頂ければ幸いです。
§MESSAGE TO AND
FROM§
お便りありがとうございました。いつものように筆者の感想をもってご返事に代えさせていただきます。意の行き届かぬところはどうぞご寛容にお許し下さい。
長崎県平戸市 川辺淑美 様
今年もまたあなたの美しい詩に接することができて幸せです。息子に木登りを見せたいと、お庭の枇杷の木に登ったことを思い出します。「さわさわと風吹けば、梢震えて」、人生の時が巡ります。ふるさとを忘れぬあなたと故郷を捨てて来た私と。
北九州市平野市民センター、みな様
この度は皆さんの聞き書きのお世話をして、思いがけない経験をさせて頂きました。お陰さまで梅雨も夏も乗り切ることができました。語り手と聞き手の熱を冷まさないためには、間髪を入れず対応しなければなりません。勤勉に部屋に籠り、机に坐り続けなければできない仕事でした。お陰で、机に坐っている間に副産物を書き上げることもできました。現代教育は、子どもの「自律性」を強調しますが、人生は仕事のほとんどすべてが「他律」でできていることを実感させられました。「他律」の状況を自分のために活用することを教えることこそが少年教育の核心なのだと改めて悟りました。
編集後記
臆病になるな!
ある講演を依頼され、事務局の要望に添って真面目に務めたら、アンケート結果に「固すぎる」と書かれました。次の回には、工夫して川柳の優秀句を何句か借りてレジュメを作りました。ところが、今度は、「おもしろいけれど、傷つく人がいる」ので、落として下さいと注文が来ました。「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」の優秀作品から選んだ作品ですから、毒がたっぷり効いているのです。「毒」の開放こそが真理を突いた「笑い」の心髄なのですが、小生は固い筈の研究者なので「ふざけるな!」という人も出て来るのでしょう。
今年の夏は、思いがけない方向に執筆が向かい、友人の矢野大和氏の「笑って元気(家の光協会)」に倣って、「笑って学ぼう」の第1草稿を仕上げました。「教育提言」と「笑い」を結びつけようという新しい分野の探検を兼ねた冒険のつもりでした。しかし、講演会のアンケートや事務局からいろいろ言われて臆病になっていたせいでしょう。
社会的な反発を恐れて、事前に、二人の友人に「自作の毒」の検閲をお願いしました。一人の友人はすぐに返事をくれました。一番毒の聞いた、自分では良くできたと思った作品について、この作品は作者の「品位」を損ね、女の気持ちを傷つけると言われました。現実を直視して表現したつもりでも、見る人によっては、品位も落ち、女性の気持ちも傷つけることになるのです。ますます臆病になりました。昔の人が身の安全を保つために匿名の「落首」にした意味が分かるような気がします。そこから突然、筆が進まなくなりました。風刺を効かせた「本歌取り」や「替え歌」にも自信がなくなり、書いたり消したりを繰り返しました。新聞や雑誌に「落首」欄ができるといいのですが、それをすれば今度は新聞社や雑誌社が不買運動の対象になったりするのでしょう。「もの言えば唇寒し」です。時に、時代や教育の「茶化し」に含まれる「真理」や「客観」には「毒」があり、「毒」は人々の安全を脅かし、それぞれの利害に直結しているということです。先生の気持ちを傷つけないように配慮すれば、学校の風刺は書けないということになります。
ある晩、偶然、「ゴンドラの歌」を聞きました。「命短し恋せよ乙女・・明日の月日はないものを」と歌っていました。ようやく悟りました。オレは爺さん!何をビクビクしてるか!明日の月日はない!友人には「点検無用」の断りを入れました。生命力が衰えて来たのでしょう。己に叱咤して「臆病になるな」、と墨書して壁に貼りました。以来、書いています。
月刊生涯学習通信「風の便り」169号、cSeiichiro Miura、『編集事務局』三浦清一郎 住所〒811−4177宗像市桜美台29−2、TEL/FAX 0940−33−5416、E-mail krsmiura@rj8.so-net.ne.jp、9月号からハードコピーをご希望の方は、印刷・郵送料として切手750円分を事務局までお送りください。12月号までお届けします。印刷:福岡コロニー