2014年9月1日月曜日

月刊生涯学習通信「風の便り」177号


メルマガ月刊生涯学習通信
 第177

                       発行日:平成269
                       発行者: 三浦清一郎

アメリカ人妻の「鏡」に映った日本—最終原稿余話
何で年寄りに「お」を付けるのか?

1 出版原稿の最終点検で多くの参考書を読みました。はっとさせられることがいくつか出て来ました。年寄りに「お」という尊敬語を付ける慣わしもその一つでした。日本社会では、時間は単なる物理的単位ではなく、価値の単位でもあるのですね。だから、年をとることに価値が生まれるのです。「年功」が社会システムを貫いているのも同じ理由であると改めて思い知りました。
2 日本人は何で「列」を作って並ぶのか、と韓国人の比較文化の研究者が問うていました。彼女の答は、日本人にとって「列を乱すこと」は「美しくない」ことだというものでした。なぜ、「美しくない」のでしょう。私は、日本では、「順番(ある地点への到達時間の順序)」に価値づけするからだ、と考えています。「列を乱すこと」は価値の否定に繋がるのです。

 日本社会の「年功」は「価値」の蓄積を意味します。「男性主導」で、「長幼の序」の理念を制度に翻訳した「年功序列制」は、未だに日本を支配しています。国際化だ、グローバリゼーションだと騒いでも、制度の哲学は基本的に揺らいでいません。「年功」は、圧倒的な強さで日本型人事を支配しています。それは簡単に変更のできる「仕組み」ではなく、長く日本人が生きて来た「文化」だからです。
 日本人にとって、年令と経験年数は、単なる時間の蓄積ではありません。「価値」の蓄積です。それゆえ、青少年の世界でも、「先輩」は、先輩であるだけで「偉い」のです。年功は、あらゆる社会条件に左右されない「万人に公平な」「価値の基準」なのです。原則として、「年功」の価値は、年齢とともに上がる一方で、下がる事はありません。「長幼の序」や「敬老」の価値観は、文化が守って来たのです。だから「年寄り」に「お」がついて「お年寄り」となるのでしょう。
 石堂氏は、「ぐうたらな若者が年をとっただけの老人」をなぜ「お年寄り」と呼ばなければならないのか、と毒づいている筒井康隆氏を引いて、「賛成」だと言っています(*)。わがアメリカ人妻も、石堂氏と同じように、「年を取ったからといって賢くなるっていう保障はないでしょう」とよく言っていました。その通りです!だから、アメリカ人にとっては、年齢や経験年数は基本的に物理的な「時間」の蓄積に過ぎないのです。「時間」は使い方次第で、本人の価値を増す事もあれば、逆に、落とす事もあります。実力も、能力も、「時間」の使い方次第・努力次第で年々変わります。それゆえ、原則として、アメリカ社会は「年功」にわずかな価値しか認めません。最重要の基準は「実力」と「努力」です。それゆえ、年功は積み上げが効くこともあれば、効かないこともあります。アメリカの大学では、「教授」になって、10年くらい勤め上げると勤務契約継続の権利:「tenure(保障期間)」という身分の保障が与えられます。「年功」評価の小さな一例です。
 一方、日本の場合は、最初から終身雇用が前提です。文化も法律もこの価値観を支持しているので、余程のことがない限り、途中解雇は極めて困難です。また、不満を口にする者の多くは信頼性を失うのみならず、転職しようにも転職先が中々見つからないのが現状です。
 グローバリゼーションの影響で外資系の会社も日本にどんどん進出しています。結果的に、「欧米基準」や「世界基準」が導入され、「競争原理」や「実力主義」も少しは日本に入りました。「派遣労働」や「契約人事制」はその代表例です。
 日常生活面で、個人主義や「自己中」や「自己責任」が言われるようになったのは、「競争原理」が文化面に現れた代表例でしょう。地域社会では、共同主義、集団主義が崩れ、「無縁社会」と呼ばれるような人間関係が生まれました。その結果、あらゆる分野で「格差」が拡大し、人々の不満は日本中にくすぶっています。
 もちろん、日本に流入した実力主義は、公平な競争をもたらした訳ではありません。競争原理は、もっぱら、不定期雇用者や失業者や女性の再就職にだけ適用されています。それゆえ、定期雇用・終身雇用の中身は、「実力主義」ではなく、相変わらず「年功序列制」が支配的です。実力主義の嫌いな日本社会は、競争文化が嫌いなののです。日本社会にとって、競争は「和」を脅かす「悪」だと認識されているからです。聖徳太子の17条憲法以来、この国の集団と組織を動かす原理は「和をもって尊しとなす」だからです。
 「実力主義」は、必然的に「勝者」と「敗者」を生み出します。両者の確執は「和」を破壊します。競争は文字通り、争いの種になるので、日本文化は、競争も、実力主義も拒絶しているのです。「じいさん」だけが偉くなるのは、男性主導・年功序列主義社会の必然であり、男に限定した「長生きのご褒美」と言っていいでしょう。実力主義と年功序列主義は、仕組みの違いである前に、文化の違いです。日本文化が実力主義を受け容れたら、日本文化自体が根底から崩れるほどの違いなのです。
 韓国出身の比較文化学者:呉 善花氏は、学生たちへの講義の中で、日本人は「「なぜ列にきちんと並ぶのか」と聞いています。彼女自身の答は、「美しくない」と感じるからだというものでした(*2)。
 日本人にとっては、やはり時間に価値があり、順番に価値があるのです。「順番」に「価値」がある以上、順番を破る者は「美しくない」のです。こうした日本人の感性は、社会制度を貫いて貫徹しているのです。
 私が、年齢とともに昇進・昇給して行くのを見ても、妻の疑問は一向に解けなかったようです。「年功を積めば、誰もが賢くなるという想定で日本の仕組みはできているんだよ!」と説明したものでした。妻の答はいつも、「全然賢くなっていない爺さんが一杯居るでない!」、でした。

(*1)石堂淑朗、日本人の敵は「日本人」だ、講談社、1995年、p.35
(*2)呉 善花、日本の曖昧力、PHP新書、2009年、p.102

(日本)           (アメリカ)
年功は「価値」の蓄積である←→年功は、基本的に「物理的時間」の蓄積に過ぎない
子どもから年寄りまで「順番」にこだわる←→順番は競争で決まる
「年功」が職階の基準 ←→「実力」が社会的処遇の基準

忘れるという名人芸
-なぜNHKは鬱陶しいのか?

日本人の私は、恥辱や被害を「巡り逢わせ」が悪かったのだと「便宜的に」考えようとします。それゆえ、だんだん仕方がないと、思うようになります。時間の経過の中で、現実状況に即して、「水に流して」忘れてしまいたいと思案します。出来事を「運」のせいにして、ただ「忘れてしまえばいい」という態度は、いい加減で、原則がないと言われる所以でしょう。もちろん、私にだって、不幸の原因も、恥辱を与えた嫌な奴のことも分かっているのですが、そういう人々と出会ったことがそもそも「巡り逢わせ」が悪いと考えるのです。過ぎてしまった「巡り逢わせ」を変えることはできません。「運が悪かった」と諦めるから前に進めるのです。ロンドン大学のサイモン・メイは、こうした態度を日本人の「忘れるという名人芸」と呼んでいます。「忘れるという粗暴な技術を会得した国ありとすれば、それは日本国である」、・・「今やさしい気持ちで人に同情していたかと思うと、次の瞬間には無常なほど無関心になれる日本人の能力は、明かりのスイッチのように記憶の開閉器を開にしたり、閉にしたりできる日本人の能力に依存している」(*)。
 もちろん、日本人の中にも「忘れること」を「罪」だと考える人もいます。しかし、自然災害でも、犯罪でも、戦争でも、原爆でも、「忘れるべきではない」、「風化させるな」と声高に言っている人をみると、やはり日本人の多くは相対的に忘れっぽいから「言い続けなければならない」のでしょう。国民の全所帯から「受信料」をとっている、NHKという公共放送がなかったなら、大抵の事件はほとんど忘れられている筈です。NHKだけは全員から金をとっている関係で、一部の人の記憶でも繰り返し言わなければならないのです。私にとってNHKが鬱陶しいのは、もう聞きたくないと思っていることを繰り返し言うためです。
 しかし、そのNHKがあってさえ、「日本とアメリカが戦争したこと」さえ知らない若者がいると嘆いている人がいます。周りも全部忘れているので、誰も教えてやらないのでしょう。
 「忘れたり」、「水に流したり」するのは、私のような日本人のサバイバルの手法なのです。八百万の神様がいる以上、「忘れても」その内の誰かが許してくれるのです。神様の使い分けは私のような日本人の特技です。いつまでも過去を悔やんで生きていたら、胃に穴があいてしまいます。
 しかし、忘れることさえできれば、欧米の帝国主義が企んだABCD包囲網も、世界で最初の原爆被害も、無条件降伏の恥辱も水に流して、スキムミルクやフルブライト奨学金の恩を忘れないで、アメリカに学び、アメリカが好きになり、アメリカ人の女性と結婚できるのです。

(*)サイモン・メイ、中村保男訳、日本退屈日記、麗沢大学出版会、平成17年、pp.123124

笑って、許してー平成の教育
 日本は伝統的に「守役」が鍛錬し、親が全面協力して、「守役」への尊敬を教え、子宝を守って慈しみました。平成時代に入って、遂に学校は子どもの「守役」であることを全面的に中止しました。文科省も学校も、生活指導や鍛錬は「家庭の責任」であるとして親を突き放しました。突き放したが故に、学校と家庭の「連携」がお題目になりました。しかし、子宝の風土の家庭に子どもの「指導」も「鍛錬」もできません。
 突き放された多くの家庭でしつけが崩壊し、今や、教育スローガンは「早寝、早起き、朝ご飯」となりました。子どもの生活リズムすら危うく、誰もしつけず、誰も鍛えない時代に突入したのです。しかも、欧米流児童中心主義思想は教育界を席巻し、以下の風潮が顕著になりました。

1 子どもの「主体性」を過信した、安易な「個性主義」
2 子どもを「客」とした鍛錬なき「学習支援」・「遊び支援」
3 困難体験と鍛錬の裏付けなき「自尊感情」と「自己肯定」の刷り込み
4 子どもは、世間に通用しない「実力」、過剰な「自己愛」、ストレスにも負荷にも耐え得ない「耐性」に苦しんでいます。
5 欲求をコントロールできない子どもは、教育が生み出す「公害」です。
 
 青少年はへなへなで、新型うつ病や不登校、非行などに苦しんでいます。現代教育が掲げる「主体性」とは何か?「個性」とは何を指すのか?裏付け無き「自己肯定」や「自尊」に副作用はないのか?なぜ現代の若者に「新型うつ病」などという医学的症状が現れたのか?現政権はなぜ「道徳教育」を正課にしようとしているのか?道徳教育は、学校の「守役」機能を復活させるのか?
 疑問は尽きないが、笑って許して!!

1 平成の教育を笑う「本歌取り」
平成の教育は、義務を課さずに、権利だけを教え、自己中・勝手を規制せずに主体性だけを教えています。困難を課さずに自己肯定を刷り込み、鍛錬を伴わぬ自尊を教えています。子どもの常套句は「きつい、面白くない、やりたくない、やだ」です。子どもの人権を持ち出すので、誰も子どもの意志に反する指導はできません。
 卑怯を教えないから、いじめは止まらず、少年法だけを厳しくして、教育もしつけも厳しくありません。小一プロブレンも、中一プロブレンも、新型うつ病も、ひきこもりも、日本の教育機関が「守役機能」を放棄して、「生活指導は家庭です」と言い続けて来た結果です。
 子どもを「宝」とする日本の親に、子どもの意志に反する「負荷」をかけることなどできません。この国では「慈しむ親」と「鍛える守役」の役割は異なるのです。

春過ぎて夏来にけらし 
1年生部屋に入らず 教師入院

(春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山—持統天皇

正常化言いしばかりに
長月の授業再開待ちわびるかな
(今来むと言いしばかりに長月の有明の月を待ち出ずるかな素性(そせい)法師

為せば成る早寝早起き朝ご飯
ならぬは親の為さぬなりけり

(為せば成る為さねばならぬ何ごとも、成らぬは人の為さぬなりけり—上杉鷹山

しのぶれど色に出にけりわがいじめ
ものや思うと親の問うまで

(しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思うと人の問うまで—平兼盛

いじめっ子目にはさやかに見えねども
遺書現れて驚かれぬる

(秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞ驚かれぬる藤原敏行

こころなき学校は知らず哀れなり
被害者死んで秋の夕暮れ

(心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ−西行)

組合も保護者も聞かず生徒荒れ
連携・協力・主体性とわ

(千早ぶる神代もきかず竜田川 からくれないに水くぐるとわ—在原業平

万引きも、援交、いじめ何せむに
まされる騒ぎ教師体罰

(銀も、黄金も、玉もなにせむに勝れる宝子にしかめやも−山上憶良)

親が皆教師より偉く見ゆる日よ
花を買い来て職員会議

(友が皆吾より偉く見ゆる日よ 花を買い来て妻と親しむ−啄木)

かにかくに荒れた学校恋しかり
窓叩き割り校長脅す

(かにかくに渋民村は恋しかり思い出の山思い出の川−啄木)

教室の窓叩き割りただ一人
彼の保健室寝に行きしかな

(教室の窓より逃げてただ一人 彼の城跡に寝に行きしかな−啄木)

校長の弁明なつかし
集会の人ごみの中にそを聞きに行く

(故郷のなまりなつかし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く−啄木)

たわむれに下級生殴り
そのあまり弱さに泣けて3度殴れず

(戯れに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず−啄木)

その上の番長の名の哀しさよ
故郷に来て泣くはそのこと

(その上の神童の名の哀しさよ故郷に来て泣くはそのこと−啄木)

学校は移りにけりな、いたずらに
じじ、ばば、PTA会議に呼ぶまで

花の色は移りにけりないたずらに
援助交際稼ぎし合間に

(花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふる長雨せしまに−小野小町)

そんならば首が惜しくはないのかと
生徒に凄まれ黙りしこゝろ

(そんならば命が惜しくないのかと医者に言われて黙りしこゝろー啄木)

頼めども、叫べども、なおわが教室
静かにならずそっと職員室に帰る 

(はたらけどはたらけどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見るー啄木)

2 あり得るんです、あるのです!—教育公害

いい人間を育てる絶対確実な方法はありません。ただし、だめな人間を育てる絶対確実な方法はあります。

 人間を対象とする教育は、人間自体が千変万化の存在なので、それぞれの場面で「これが一番向いているだろう」という判断は可能であっても、「絶対」とか「確実」を期待する事は難しいのです。
 しかし、子どもを確実に駄目にする方法は、間違いなくあります。子どもの好きにさせ、嫌なことはしなくていい、と言い続けることです。「子宝の風土」が陥る最大の危険がこの「子ども第一主義」にあります。子どもは「宝物」ですから、「宝」を守る事、「宝」の意志に応えてやる事が、家族の務めであり、正しい養育だと錯覚しがちです。具体的には、過剰に子どもの世話をし、過剰に心配し、過剰にものを与え、過剰に言い分を聞き過ぎる事です。
 現代の青少年問題の大部分は、鍛錬を欠落した過保護な教育に起因しています。戦後教育は、戦前の「教育」や「しつけ」をほぼ全否定して、日本人が培った長年の子育ての伝統や知恵をぼろのように投げ捨てました。可愛い子には旅をさせ、転んでも起こさず、辛さに耐えさせ、家から離して他人の飯を喰わせることを忘れたのです。また、学校は欧米の「児童中心主義」教育論に支配されて、過保護の歯止めが効きません。学校の児童中心主義と子を慈しむ「子宝の風土」が最悪の結合をして、少年教育における戦後最大の危機をもたらしいるのです。

怒れ!じいちゃん!!ちゃんと教えろ!!!
じいちゃん:叱ったらオレのこと「くそじじい!」って言いやがった。お前も多美子さんもなんでいちいち子どもらに口答えを許してんだ。駄目なもんは駄目だって教えろ!
父:子どもらには子どもらの考えがあるんだよ。
じいちゃん:それでくそじじいか!!!!
母:「主体性」は大事ですって、先生も!
じいちゃん:だから、「主体性」を教えた結果がくそじじいかって聞いてんだ!!
父:ちゃんと言っとくよ!!未だ子どもなんだ!!
じいちゃん:まだ子どもだからつべこべ言わせずに教えろって言ってんだ!自分で判断できねえから教育してんだろ!!口の聞き方を教えろ。ゲームは止めさせろ!皿洗いはさせろ!!子どもは「半人前」だ。言わせていいこととならんことがある。
母:それは昔の封建的な教育ですわ。
じいちゃん:何を言っとるか。お前の亭主がまともに育ったのは、封建的な教育のお陰だ。健太、分かってんのか!
父:うん、分かってるよ。オレもぐれかかったことがあるんだ!
母:それでも時代は変わりました。
じいちゃん:時代は変わっても子どもの育て方は変わっとらん!!駄目なもんは駄目だ。親が決めればいいんだ!!
母:でも、学校やカウンセラーの先生方は、頭から否定しないで、自尊感情や自己肯定感をもたせなさいって!!
父:市では、「子どもの権利条例」とかいうのも決まったって!
じいちゃん:市役所がアホだからだ!!決めた奴らのがきを調べてみろ!何が権利条例だ!!この国は最初から子どもは「宝」なんだ!!
母:先生方は「自己肯定感」が大事だって。
じいちゃん:稼ぎもできない奴に自己肯定なんて教えるな。まだまだ未熟だって教えろ!!お前たちは子どもらを喰わしているんだ。お前らの方が偉いんだぞ。自分のやってる通りをやらせろ!学校も、市役所も、子どもの責任はとっちゃくれんぞ!
父:わかったよ!そうするよ!
母:私は分かりません。頭ごなしでは子どもが萎縮してしまいます。
じいちゃん:ちっとは萎縮させろ!あいつらはのぼせとる!!萎縮するくらいで丁度いい!!!
父:じいちゃんにも一理ある。母さんはちょっと黙って!
母:(全然、分かんない!!!!じいちゃんが何で干渉するの!!子どもはのびのび育てるのよ!!第一、じいちゃんの子どもじゃないでしょ!!)
じいちゃん:「主体性」が大事なんだろ!蔭でぶつぶつ言わんで、言いたいことがあったら言ってみろ!!孫が怒鳴られるのが嫌なら、連れて来るな!!こっちの血圧に障るわ!!!

3 「みんな違ってみんないい」
—君だけ違っていいはずない!

安易な個性主義の毒

 教育における安易な個性主義は日本の教育を軟弱にし、日本の若者を自己過信に陥らせました。幼少期から「君はかけがえがない」と刷り込まれれば、鍛錬の裏付けのない過剰な「自己愛」が育って、少年を毒します。まして、学校教育が小学校から、裏付けのない自尊感情と自己肯定だけを教えれば、少年はうぬぼれと自己満足に転落します。それゆえ、少年に自らの未熟さを自覚する意識は育ちません。自己否定を忘れた少年は現状に満足して、努力を忘れます。そうなれば、進歩・向上も止まり、実力はつきません。実力も無く、がまんもできない青年は、当然、世間に潰されます。医者の言う「新型うつ病」はこのような人々の「現実逃避」であり、心理学上の「社会的不適応」です。
 人気の金子みすずを教育に持ち込めば、「みんな違ってみんないい」となって、個性と自侭を混同します。未熟な自分も肯定します。だから、「新型うつ病患者」は、自分は悪くない、悪いのは世間の方だと考えます。登校拒否も出社拒否も、新型うつ病もひきこもりも、裏付けのない過剰な自己愛がもたらす社会的不適応です。
 共同生活のルールは基本的に「みんな一緒」です。「法の前の平等」ですから、「ルールの前の例外」は認められません。だから「君だけ違っていい」ことにはなりません。もちろん、みんな一緒は共同主義で、全体主義ではありません。

君だけ違っていい筈ない



子みすすずは言いました
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
平成の学校が言ってます
君の個性はオンリーワン
君の人権もオンリーワン
見えぬけれどもあるんだよ
世界に一つの花なのよ
そだろか、そだろか、そうだろか?
だったら何でいじめるの?
みんな違ってみんないい!?


学校のセンセが言ってます
今の自分でいいのです!
かけがえのない君なのだ
誰かの真似などしなくていい
自己肯定というのです
自分を好きになりなさい
自尊感情というのです
今の自分でいいのです
みんな違ってみんないい!
そだろか、そだろか、そうだろか?
みんな未熟でいいだろか?

赤信号ではみな止まれ
止まらなければ、事故になる
君だけ違っていい筈ない
酒よい運転みな止めろ
飲んだら乗るな、乗るなら飲むな
ルールはみんな一緒です
君だけ違っていい筈ない!?
そだろ、そうだろ、そうでない!?

勉強しなけりゃ実力つかぬ
実力無ければ職はない
職がなければ生きられない
がまんしてるの君だけじゃない
みんながまんしてるんだ
だれもが一生懸命だ!
働かざるもの喰うべからず
それが世間というものよ
君だけ違っていい筈ない
そだろ、そうだろ、そうでない!?

世間の常識学校と逆で
君はふつうの若者で
「世界に一つの花」じゃない
がんばらなけりゃ認めない
辛抱しなけりゃ花咲かない
個性も権利も認めない
ルールも仕事もみな同じ
君だけ違う筈はない
見えない掟があるんです
みんなと一緒にやるんです
君だけ違っていい筈ない
そだろ、そうだろ、そうでない!?

学校の教えを捨てなさい
未熟な自分を肯定するな
足りない自分を愛するな
自尊感情はうぬぼれで
自己肯定は自己満足
満足したら進歩は止まる
肯定するなら教育要らぬ
まだまだ未熟と思い知り
まだまだ足りぬと悟りなさい
そこから進歩が始まります
そだろ、そうだろ、そうでない!?

世間は厳しく、冷たいものよ
オンリーワンだと言われても
それは学校の幻想よ
君はふつうの花なのよ
どこにでもある花なのよ
代わりはいないと言われても
代わりは常にいるものよ
実力つけなきゃつぶされる
がまんできなきゃ病気になるよ
気をつけよう、甘い言葉と褒め言葉
やりたくなくてもやるんだよ
やりたくたってやってはならぬ
それが世間の掟です
見えなくたってあるんだよ
見えないものでもあるんだよ
それが規範で、不文律               
君だけ違っていい筈ない
そだろ、そうだろ、そうでない





177号§MESSAGE TO AND FROM§


 散歩道の曼珠沙華が一斉に花をつけました。川べりは虫の声に満ちているのに、田んぼの畦は虫の声が聞こえません。農薬の所為なのでしょう。いつものように筆者の感想をもってご返事に代えさせていただきます。意の行き届かぬところはどうぞご寛容にお許し下さい。



佐賀市 秋山千潮 様、田中真由美 様

 昨年お会いしたマスクの新人のトレーニングに一番興味がありました。お見事でした!!「面白いですね!いつの間にか巻き込まれました」、という彼の感想を聞きました。
 100回の「まちの駅」事業おめでとうございました。地域の皆さんの出番を作り、みなさんを上手に乗せ、皆さんに任せ、地域をもり立てて行く手法は、論理にはならないと感じました。館長—主事の愛嬌コンビが良かったのですね!
社会教育の心髄は、人をその気にさせる愛嬌と人の褌で相撲を取る能力ですね現職の校長さんがいて、退職の校長さんもいて、学生も政治家もいて、91歳と95歳の爺さんも惚れて通って来て、ただのカレーを400百食も振る舞う「へそくり」も溜めていて、ますますお見事でした。腕のいい音楽家を集めたことも、地域の歴史を掘り起こして、観光に繋げようという展望もお見事です。ボードには、「家に帰ると『うつ』だけど、ここに出てくると元気になる」というお礼のメッセージが貼ってありました。あなた方のエネルギーにただただ圧倒され、疲労困憊で帰り着きました。付き合いきれねえ!!あり得ねえ!!!

札幌市 竹川勝雄 様

 あなたの編集作業と平行する形で執筆を続けました。異常気象の夏がいつの間にか過ぎました。最後の点検をしています。あなたのご本より一〜二か月ぐらい遅れると思いますが、「国際結婚の社会学」を世に問いたいと思います。書き上げてみて、私生活を素材にする危うさが分かり、亡妻の心配が分かりました。原稿の半分は捨てました。人生の締め切りを感じて生きています。




お知らせ




1 第143回生涯教育まちづくり移動フォーラムin上天草
日時:平成26年10月25日(土)
場所と内容はただいま協議中です。

2 第144回生涯教育まちづくり移動フォーラムin 徳地
日時:平成26年11月29日(土)〜30日(日)

場所:山口県徳地青少年の家
内容は協議中です。

3 第145回生涯教育まちづくりフォーラムin ふくおか
日時:平成26年12月20日(土)
場所:場所:福岡県立社会教育総合センター、
  〒811-2402 福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2
  TEL 092-947-3512  FAX 092-947-8029
忘年例会になります。内容は協議中です。

4 第147回移動フォーラムin島根
日時:平成27年1月10日(土)
場所:島根県益田市

5 第148回移動フォーラムin長崎
日時:平成27年2月1日(土)
場所:大瀬戸町(?)

  それぞれにご多忙であることは承知しておりますので、事前に日程だけ押さえて頂ければ幸いです。








177号編集後記
やれると思う日もある、とてもとてもと思う日もある



 起き出して身体が固い。指先が動かない気がして脳梗塞を心配する。平らなところでたたらを踏む。立った弾みでよろける。「渚のアデリーヌ」をかけて、日課の「タコ踊り」をする。ようやく平常。原稿の点検を急がなくちゃと思う。オレも今年が最後かと悲観的になる。そういう日もある。
 ところが、犬たちに引かれて朝の田んぼ道を歩く。いつの間にか曼珠沙華が一斉に整列している。「ウソじゃなかった好きだった!」と声張り上げて歌う。秋風が火照った頬に心地よい。そんな日にヨレヨレの75歳に出会ったりする。人のふり見て我がふり直せ!!!オレもまだまだやれそうだと思う。
 年寄りの日常は気持ちの大波と小波が打ち寄せる。
佐賀市立勧興公民館の「まちの駅」事業100回記念大会に参加した。あの日は、とてもとてもと思う日であった。館長さんが「あのお二人は95歳と91歳で、毎月見えるんですよ」と紹介してくれた。「そんな話は聞きたくない!!」「オレは来年の5月の大会までしか考えていない!!」「風の便りだって今月号を考えるのが精一杯だ!」
館長さんは同い年。100回記念を祝して公民館の内外に溢れんばかりの人が集まっている。あっちに愛嬌を振りまき、こっちにお辞儀をして生き生きとしている。このエネルギーも見ているだけで疲れる。出会った時は赤いブラウスを着ていたのに、会が始まったら緑のブラウスに着替えている。どっちも似合うじゃないか!同い年なのに色気もある。時々こっちを見てにこっと笑う。とても、とても太刀打ちできない。
 終日、昼寝のない強行軍でほとほと疲れ果てて帰宅。犬たちを両脇に抱いてソファーに身を埋める。「命短し、頑張れ爺さん!明日の月日はないものを!」。とてもオレにはやれそうもない、と思った一日だった。

 月刊生涯学習通信「風の便り」169号、cSeiichiro Miura、『編集事務局』三浦清一郎 住所〒811−4177宗像市桜美台29−2、TEL/FAX 0940−33−5416、E-mail  krsmiura@rj8.so-net.ne.jp、10月号からハードコピーをご希望の方は、印刷・郵送料として切手500円分を事務局までお送りください。12月号までお届けします。印刷:福岡コロニー